見張り塔から見放され

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オタクは国境を越えてだいぶ経つ。

それこそ各々が一人で一人分の穴を掘っていたつもりが、見渡せば同じようなことを皆がしている。私は誰かと交換が可能なのであって、オタクと呼ばれるマイナー文化まで逃げたところで、それは決して変わらない。しかも、それは、クラスの中で俺とよく似たやつが俺とよく似たことをしているというレベルで止まらず、会った事もない、おそらくは言葉が通じないというような人間まで同じ事を考えている。

見張り塔を建てたら世界は平坦にみえることだろうて。それが戦場だとしても。

http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070618/p1
誤読であろうが、交換不能な生を描く自然主義VS交換可能(すぎる)生を描くラノベってのは怪しい。

日本人と西欧人が交換可能であると思われたから、「文学」は輸入されたのではないだろうか。その輸入された文学において「誰のものでもない生」を描くのは、やはり奇妙なことで、その「文学」に対して人はシニカルに構えざるをえない。

ややこしくなってきたので中止。

さてここで自供しておこう。
俺はライトノベルは現に読まれている小説であることが全く理解できていない。俺の中でラノベっていうものは「下らないもの」である。

取り合えず映画を観るヤツが上の方にいた。洋楽をやるやつがいて、純文をやるやつがいた。その少し下にマンガがいて「マンガは洋楽だ。映画だ。文学だ。」と主張した。その下にアニメがいて「声優だけだと思うなよ!押井がいる。宮崎がいる。ガンダムもなかなかだぜ」と言った。その下にラノベがいた。やつらだけが認められてなかったし、認められようともしていなかった(ブギーポップは例外かも知れない。)俺はそのような十代を送った。ついでに「政治」をやるやつはキチガイだ。ナショナリズムは、学校に蔓延する「ブサヨク」的説教を回避するためにあった。政治とはブサヨクのものであった。

話を戻す。ラノベは下らないものだからこそ、衒学でもってブッた斬ることができる。もしライトノベルに感動したような経験があったり、日常の中にライトノベルが溶け込んでいるなら、この手のものがブッた斬るときの抵抗になりそうなもんだが、全くそのようなものはない。ただ、斬る。そしてブッた斬ることは楽しいことだが、これとラノベは無関係だ。そして斬りやすいから、ラノベを斬っているのだ。大学で学んだ文学論が応用できるからな。下らねえと思う。命がけで、切りにくい物を、斬る。ってもんが読みたいし、書きたい。その時に自分の首が落ちていてもいい。斬れてなくてもいい。というようなもんが。