窓辺から納屋へ飛び立つ


割りに考えさせられる。碇シンジは母と一体になりたいわけで、エヴァに乗る事には一定の快楽がある。しかしアスカはどうだろう?と。母と一体になることに快楽を感じるか?おそらく違う。それとも母のようになりたいか?そこに待っているのは無残な死に様だ。アスカは何かの目的をもってどこか遠くに前進しなければならない。でも何処へ?

レズ小説のタイトルが「マリア様がみてる」だと。男の「母」になれないくせに。

とか言うとアホ丸出しである。読んでから言えと。

ガンスリ7巻を読んだり、今村仁司(未読)が亡くなったり、コミティアに行かなかったり、噂のアメコミ評論本を読んだりしてダークな気分に。

世界の広さにビビッて引きこもり、独自な世界を切り開けりゃ、それは儲けモンだが、下手に満遍なく手を出して、そこらじゅうで打ちのめされる。

兵隊やくざを観た。ホモだ。ヤオイだ。厭世家でインテリの主人公と近代国家=軍隊の枠からはみ出してしまうヤンチャ系初年兵の愛の物語。この映画に描かれた敵と戦うわけでなく内紛に明け暮れる兵隊の姿は、「目的」への不合理性という観点において、結婚・出産という「目的」を果たせない二人の愛と同調を見せている。しかしそう上手くはいかない。製作者は二人の間に慰安婦を置くことによって、ホモセクシャルホモソーシャルへと転落させ、国家は彼らを死地に送る。ラストシーンの脱走は痛快だが、国家によって敷かれた鉄道の先にあるのはまた別の慰安婦だろう。


とか言うとアホ丸出しである。←ごめん。でも映画を観てこんな感想を抱くやつはいない。だって勝新だぜ。

私の中に目的と手段というものは、未分化にある。正しさに快楽を見るし、快楽の中に正しさを見る。政治と文学と日常の中に線引きは生まれず、ありとあらゆるものに欲情し、すぐ飽きて、またどこかに行ってしまう。これを萌えと呼ぶ。いや呼ばない。この事を肯定しよう。いや、しない。