戦争zipでくれ


メーデーだったのだそうで。mixiで関連の日記を見て回ったのだが、無視されているどころか、メーデーが憎悪されているような感じさえあった。

論座6月号が出たのだそうで。そこには赤木智弘続「『丸山眞男』をひっぱたきたい」が掲載されているそうだが、まだ読んでいない。(http://opendoors.asahi.com/data/detail/8090.shtml

その前にhttp://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/20070309←ここに書きそびれた赤木智弘「『丸山眞男』をひっぱたきたい」への感想を書いておこう。


以前話題になった赤木智弘『「丸山真男」をひっぱたきたい』における戦争のイメージは「敗戦」のそれである。赤木はいっている。

戦争は悲惨である。
しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。

国権の拡張。国威と民族の栄光。国民すべてが一つの目標に向かって小異を捨て、大義のために「坂の上」を目指すという、要はポジティブな戦争のイメージを赤木は採用していない。そこには「軍需が拡大したら、正社員になれる」ということさえも全く含まれていない。社会に流動性が、新しい世界が生まれることを、赤木は望んでいる。その最終手段として「悲惨」=「戦争」が必要だと言っているのである。彼は戦争によって、国権が拡張され、そのおこぼれをたかろうとしているのでは、全くない。この精密に作り上げられた世界を、悲惨な戦争によって破壊しようと語っていると言っていいだろう。この戦後の栄光は、敗戦という流動化を基盤に築きあげられた。赤木を批判する鶴見俊輔が20代で助教授になれたのも悲惨な戦争と無関係ではないだろう。赤木は、原初に戻れ!原初を忘れるな!と言っているように私は思えた。「八月十五日」=「敗戦」という原初を。悲惨な戦争を経ることによって、新しい世界が生まれ出てきたということを。

はて?この物言いにはどこかで覚えが?外山恒一?まあ彼にもこのような物言いが散見できるが(彼はファシストなのだそうだhttp://www.warewaredan.com/contents/kihon.html)、江藤淳は『"戦後"知識人の破産』で以下のような物言いを引用している。孫引きする。

初めにかえれということは、敗戦の直後のあの時点にさかのぼれということであります。(拍手)私たちが廃墟の中から、新しい日本の建設というものを決意した、あの時点の気持ちというものを、いつも生かして思い直せとということを、それは私たちのみならず、ここに私は、そのことを特に言論機関に心から希望する次第であります

この文章は丸山真男「復初の説」である。つまり、これを語ったのは丸山真男なのだ。赤木は『「丸山真男」をひっぱたきたい』と言いつつも、丸山と同じような言説を述べ、同じような場所にいる。敗戦によって生まれでた廃墟を忘れるないっている。戦争によって開かれたはずの世界が、経済成長や日米安保によって閉じられていったと60年代の左翼が感じたように、赤木は不況を脱したかのように思える現在において強い閉塞感を持つに至った。ただし赤木の方が「戦争には向かわせないでほしい」と言っている分だけ、頭は回っているが。『「丸山真男」をひっぱたきたい』と言いつつも、丸山と同じような物言いをしてしまった彼に、左翼に対する「甘え」を見出すのは正しい。だが、彼の物言いに、自身のグロテスクさを見出せなかった左翼は大馬鹿である。

赤城智弘のプロフィールはhttp://www7.vis.ne.jp/~t-job/profile/profile.html←このような感じである。このような趣味傾向、読書傾向はネット右翼(当世流の右翼)のものではない。おそらく彼は、ネット右翼を演ずることによって、ネット右翼を叩いて満足している人間に、グロテスクなものを提示したのだ。俺はおまえである、と。この芸を見抜けずに、彼を一フリーターと見た人間は、文章読みとして失格である。

最後に。江藤淳は上文で引用した丸山真男「復初の説」を以下のように批判している。長く引用する。

いずれにせよ、「廃墟」に不都合なものはなかった。食糧がなかったので胃は理想主義を咀嚼していればよく、したがって頭と肉体が分裂する心配もなかったのである。
 そこでは急進的自由主義者は共和国の夢を、共産主義者は革命を、国粋主義者は復讐を想い描いていればよい。居心地のよくない思いをしたのは、生来理想主義というものを信用していない実際家だけである。しかし、街並がととのいはじめ、物質が豊富になって行くにつれて、すべてが悪くなりだす。インテリゲンツィアは林立するビルのむこうがわに「廃墟」のイメイジを想いうかべて八月十五日の「正義」を確認し、ふりかえって叫ばねばならない。こんなはずはなかった。なにかがちがっている、と。「正義」は「政治」と不可分である以上、ちがっているのは「政治」が「不義」と結びついているからだいうことになり、したがって「不義」には反対すべしということになる。だが、過去の論理で現在を切っても時間を遮断することはできない。「廃墟」が遠くなるのは必然の勢いであり、そこに人が暮らしていれば街が美しくなるのも理の当然であろう。追い詰められた理想家に可能なのは、逆に「廃墟」のイメイジを未来に投影すること、つまり、それがどんな種類の革命であれ、破壊を待望するだけである

赤木にグロテスクさ、左翼とネット右翼の同調性、を見出せた人間は、この文章を読むべきである。ネット右翼が滅んでも保守というものは滅びない。またネット右翼が自身を保守と考えているなら、それは間違いである。またネット右翼を叩き、左翼ぶっている人間は、自身の保守性を感じなければならない。