M2、君ら親子に

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070320-00000020-spn-ent
駿かわいいよ駿

駿に興味が無い。というか嫌いだ。他人との違いを強調するためにこういうことを言っているのではなくて、本当に嫌いなのだ。近作はすべて観ていないし、評価の決まった作品もTVでしかみていない。家にTVがなくなってからは、そういうこともなくなった。画はいうまでもなくスゴイし、見終わった後は泣いたりもするのだが、その後風呂に入ったりして、スカッとした後冷静に考えてみると嫌悪感がこみ上げてくる。ただしいロリとショタがまちがった大人を蹴飛ばす話である。誰からみて「正しい」か「間違っている」かといえば、それは(歪んだ)大人であり、それに媚を売る「よくわかった」ガキどもである。村瀬ひとみ『フェミニズムサブカルチャー批評宣言』を読んだときに、この手の嫌悪感を言い表されたような気がして「ああフェミニズムって、こういう感覚なのね」と思ったりもした。

個人史的には今は昔のことだけど。

まー近作は違うんでしょうが。マンガ版『ナウシカ』も違うと思います。インチキなエコロ・ロリショタ賛美ではない。

吾朗バッシングはプロレスでしょう。親子対決路線を繰り広げるためにこういうことを言ったのかもしれないし、、「ゲド戦記」の監督に吾朗を起用することになってしまったことに関する責任逃れかもしれないし、スタッフをかばっているのかもしれない。

私は駿の発言から吾郎に対する深い愛情を感じた。星一徹が飛雄馬に対峙するが如く、「獅子が仔を崖から突き落とす」のような。「おい、這い上がってこいよ」と駿は挑発している。

しかし吾朗は40歳。駿はむしろ「ゲド戦記?うーん、親子なんで冷静にみれなかったことを白状しますけど、つまらなかったですね。まーそれは彼の責任なんで彼自身が考えて行けばいいんじゃないでしょうか。私は私でやりたいことがあるんでそれをやります」とか言うべきであった。

「二度と吾朗みたいな子をつくらないために」という物言いは「私は吾朗の育て方を間違った」「吾朗は本当は良い子なんだ」「私はこれから吾朗を育て直す」のように聞こえてくる。ロリショタを脱した?作者は結局呪われた所を徘徊している。でもその呪われた部分こそが駿の真骨頂だろう。次回作には期待大。私には関係ないけど。