戦争!いいなあ

噂の赤木智弘『「丸山眞男」をひっぱたきたい』とその応答(論座4月号)を読んだ。

http://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/20070304

ブサヨ人々はかつて「『丸山眞男』をひっぱたきたい」と言っていたわけだから。「『丸山眞男』をひっぱたきたい」と主張することは、かつての若者であり現在の抑圧者を慰安するだけではないか。若者らしい若者がでてきて、かつての若者はその姿に過去の自分を投影し、悦に浸っているだけではないか

とデタラメに言ってみたのだが、ブサヨクどもは全くそのような歴史を忘れていた。

私の感想は全てhttp://d.hatena.ne.jp/inumash/20070307/p1に言い当てられたような気がするので、特に何もない。いや、少しだけ書いてみよう。

赤木智弘は自身を触媒として、世代と時代を語ろうとしているように思えた。要はこうだ「不況下にサヨクは何をしていたのか?」と。

フリーターは小泉改革ホリエモンを支持したのかも知れない。ただこの物言いは不十分だ。「フリーターは、サヨクを支持せずに小泉改革ホリエモンを支持した」というべきだろう。資本主義の一番えげつない部分が露呈しているときに、社会党やら共産党はどれだけ議席数を増やしたのだろうか?求心力を発揮できたのだろうか?と。

赤木智弘がもっている戦争のイメージは「敗戦の焼け野原」のそれだ。「8.15の青空」だと言ってもいい。アナーキーで、社会が極めて流動化した世界。かつての日本人が立っていた深い底抜けの青空。

敗戦は革命として左翼からは捉えられてもいたはずだ。赤木智弘が『「丸山眞男」をひっぱたきたい』でいった戦争を革命と言い換え、平和を秩序にでも変えてみよう。

秩序が続けばこのような不平等が一生続くのだ。流動性を生み出してくれるかもしれない何か―。その可能性の一つが革命である。

革命は悲惨だ。
しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、革命は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスである。

しかし、それでもと思う。
それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが革命に苦しむさまを見たくはない。
だから私を革命に向かわせないでほしいと。
しかし、それでも社会が秩序の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。

勿論、赤木は革命ではなく戦争と言った。もしサヨクが不況下に求心力を持てていたら、赤木の論考は一体どのようなものになったのだろう?

かつてサヨクは丸山の研究室を襲撃した。頭脳警察は『戦争しか知らない子供達』と歌った。そこまでしてネット右翼は訴えているのだ。これは挑発を通り越して、期待でもある。それに対しサヨクは一切答えなかった。鶴見俊輔は戦中の自身を英雄のように語った後で「九条の会」の運動ができればいい、とまで言っている。

『「丸山眞男」をひっぱたきたい』は甘えであるのかも知れない。ならばそれこそ戦争を起こさなくてはいけない。