鶴見俊輔『漫画の戦後思想』雑感と暴論

鶴見俊輔『漫画の戦後思想』を読んでいるんだけど面白いね。

これを読んで知ったことだけども、宝塚ってのは人工都市でさ。人工的というか人の手で構成されたユートピアというか。その上に何が建ったかといえば、倒錯劇場だ。安易な物言いだけど、構成された物語の上で倒錯劇をやった手塚治虫が宝塚に生まれたのは必然ってものかもしれない。

大城のぼる『愉快な鉄工所』を最近読んだのだけど面白かった。何が面白いのかといえば、その破綻っぷりである。「鉄工場」のディテールを延々と描き、物語の当初の目的は忘れ去られ、ブツンと終わる。勿論これは雑誌連載ではなくて「描下ろしの単行本」として描かれたものなので、この非構成っぷりは見事だ。

さて『愉快な鉄工所』の舞台の満州も人工物だ。暴論だが、大城のぼるはディテールへの倒錯によって構成力のない『愉快な鉄工所』を描き、構成力のある「満州」に対置させた。手塚はその手に「倒錯」を持ちながらも、自身を育んだ「構成」を「倒錯」によって転倒させなかった。手塚はエロいのは今日となっては定説だが、手塚がエロマンガ級の構成力のない話を描いたという話は聴かないし、読んだこともない。

でもマンガの歴史は大城から手塚へと流れる。そして今日において手塚を神様としているのはその構成力である。手塚や人々が「非構成」と見ているものは、もしかしたら「反構成」だったのではないか。

私なんぞはでたらめなマンガが好きである。『DEATH NOTE』には全く興味がわかない。そんなものより『サルまん』の『とんち番長』のほうが遥かに面白いもののように感じる。そういう意味で手塚は私のマンガ史の祖ではない。手塚以前の作家と呼ばれる人間が私の先祖である。

しかし手塚は自身の「構成」への注目に疑問を持ってもいた。『漫画の戦後思想』から孫引きする。

漫画は落書き精神から発するというが、近ごろは、落書きのような楽しい子供漫画が少なくなった。ぼくは、シリアスで深刻な話を描いていて、フッと自分で照れたときに、童心にかえるつもりで、このヒョウタンツギを出してみるのだ。最近、これすらも『邪魔だから、こんなものはやめてください』と投書してくる子供が多くなったのには、ぼくはなんとなくさみしい気がする。(手塚治虫『ぼくはマンガ家』)

ロストワールド』『来るべき世界』『メトロポリス』を描いた作家として評価される手塚治虫とは思えない発言である。この物言いを読んで、自分がヒョウタンツや、おむかえでごんすが好きだったことを思い出した。やはり手塚は神様なのかもしれない。前手塚にあった「落書き」の感覚を覚えている最後の戦後の作家だったかも知れない。

ところで今日において「落書き」は復権しまくっている。「ふたば☆ちゃんねる」やお絵かき掲示板でつむがれる物語の断片と落書きとキャラクター達でてめえのHDの容貌はどえらいことになっている。手塚が生きていたら、「ふたば☆ちゃんねる」に投稿していたかも知れない。ただし本人の作風にそれがどう影響していったのかは別だけども。