love cheat?


電波男』を図書館で半分ほど読んだ。いかに自分が本田透を見くびっていたのかを思い知った。

本田の史観はこんな感じだと思う。昔神様がいた。でも神様は死んだ。人は神様がいなくても相互に信頼しあえるシステムを考えた。それが恋愛だ。でも恋愛は耐え難いし、そこらじゅうで弱肉強食みたいなことになって信頼どころの話ではない。さてどうしようか?となったときに本田が提案したのが脳内と萌えとそれによるオタク的連帯だ。
(手元に「電波男」がないのでデタラメを書いてるかも知れない。不安になってきた)

さてこの話を聞いて「正直どうだろう?」と思った。神様の代用として恋愛が生まれ、恋愛の代用として萌えが生まれたんなら、「萌え」ってのは神様の代用の代用ではないか?「神様は死んだ」のなら、恋愛が破綻したように、その代用物も死んだのではないか?

脳内っていわれても「現実の土地の価値と、市場に浮かんでくる脳内地価とは違うんだ!脳内地価萌え」とかいっていた人間が現在の陰惨な現実の一片を作ったわけだし、「脳内神様」といっていたガキがおバカなことをやったりもした。

だったら、私たちは「神」も「神の代用」もない世界のあり方を考えるべきではないか?

ここで私は「伝統」を挙げたい。大体、神様なんてのは毛唐の思想やないか(本田はプラトンに「萌え」を見出してもいる。いうならば「萌え」は西洋哲学の系統の中に生まれてくるものってことだ。)。私達日本人は神様がいない世界をそれなりに面白く生きてきたのではないか。

しかしだ。日清戦争日露戦争も私たちは日本刀で闘ったわけではない。そりゃ先人も色々と悩んだ。真珠湾を奇襲した先人の胸中には、桶狭間の合戦の織田信長の姿が、一ノ谷で逆落としを決めた源義経の姿が、女装し熊襲を強襲した倭建命の姿が、八岐大蛇を酔わせて討伐したスサノオの姿が、数々の日本古代の英雄の姿が去来していたに違いない。確かに武器は毛唐のものだ。しかしその魂は、神様がいない世界でつちかわれたものだ!

とか思ってたら見事毛唐に負けた。で、色々あって「萌え」に屈さないといけないんでしょうか、と思うんですよ日本の私は。