友人に今更語るセカイ系1.1

この世界では珍しく登場人物の心理描写があるのが特徴。

西原萊による上遠野浩平ブギーポップは笑わない』評(『いまどきの「ブンガク」』に収録)

坪内逍遥がいう近代文学の「神髄」は、そのような「政治」から自立することである。しかし、現実には、自由民権運動は挫折していたのであり、そのかわりに外形だけの憲法や議会が与えられたのである。明治20年代の近代文学は、自由民権の闘争を継続するよりはそれを軽蔑し、闘争を内面的な過激性にすりかえることによって、事実上、当時の政治体制を肯定したのである。1970年代にはそれが違った文脈で反復されていた。私が「起源」に遡って批判しようとしたのは、このような「文学」、このような「内面」、このような「近代」であった。

柄谷行人日本近代文学の起源 韓国版への序文』
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/origin_kr.html


どうして私が「セカイ系セカイ系」と五月蝿いかといえば、それはナショナリズムがぽしゃったからだ。酒鬼薔薇事件やエヴァの劇場版が公開された年にはじまった「つくる会」という運動は沈下し、安倍政権は下らないものになった。そんな時代に『ハルヒ』は放映されたわけである。

エヴァオウム真理教とともに記憶されるように、私は『ハルヒ』をかのように記憶しておこうと思う。


向こうのほうで使者が暴れている。こっちのほうでは男が花に水をやっている。この近景と遠景に引き裂かれたセカイ系的風景が登場するエヴァのタイトルは確か『男の闘い』だったハズだ。『あしたのジョー』のアニメ版には同一のタイトルが存在する。

「われわれは明日のジョーである」と見得を切った人がウン十年まえにいた。そして現在パレスチナには『ハルヒ』の図像が掲げられる。