マンガ屋たち

新田真子のマンガを読んでいる。わかるような、わからないような。さて、わかるためにはどうしたらよいのだろう?

竹内一郎手塚治虫=ストーリーマンガの起源』が批判されている。読んだことないのでなんともいえん。ただこの本を貶した文章も、それを書いている人もなかなか面白い。そして何よりも熱い。「熱い」というと嫌味に聞こえるけど、マンガ評論が一種の成熟を迎えようとしていることがひしひしと伝わってくる。

紙屋研究所さんは
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/storymanga2.htmlで、「なにせ「学芸」の「賞」をおとりあそばすようになったわけだから、それは先行研究にたいするわきまえや身振りがないことはほとんど致命傷といってもいい。」と仰っている。

慎重に議論は進めなきゃならんのだけど、ジャンプします。さて今日マンガ評論が対象として捉えるマンガ作品に人はこれほどまでに「熱く」なれるのであろうか?私が無知なだけかも知れんが、「手塚治虫文化賞」やら「文化メディア文化賞マンガ部門」の受賞作の可否でこれほど熱くなっている人はいない。いたとしてもスルーされている。有名な新人賞である「四季賞」もそうだろう。新人が最も先端であるとされているなら、この賞にもっと注目があってもいいんじゃないか。

さて竹内一郎手塚治虫=ストーリーマンガの起源』だ。読んだことないけど。この本に対する批判の一つは「先行研究の無視」に向かっている。学術研究なら先行研究の無視は駄目だ。評論というか芸文でも、おそらく駄目だ。じゃあマンガ作品だったらどうだろう?

「作者は手塚治虫も読んでいない」
「作者は24年組も読んでいない」
「作者は吾妻ひでおも知らない」

という批判は通るのであろうか?おそらく通らない。

ガンスリ』『苺ましまろ』は下手っぴだ。コマのレイアウトやらがなんかイマイチぱっとしない。というかびっくりするぐらい読みにくいときがある。もし、マンガの歴史が、マンガ表現のノウハウの蓄積に求められるなら、この両作は(少なくとも序盤部分は)失敗している。でも困ったことに面白いのだから困る。

評論とマンガは違う。マンガ評論のジャンルはやっぱり評論だ。しかしマンガ評論家はマンガという他ジャンルを相手にせねばならない。さてそのとき彼の中に「マンガ作品」が入り込んでいかないだろうか?夏目房之介大塚英志伊藤剛竹内オサム四方田犬彦もマンガが(おそらく)描ける。さて彼らはマンガを読むとき「マンガ作品」にいるのか「マンガ評論」にいるのか。(また「評論」のどのあたりにいるのか?「作品」のどのあたりにいるのか?)

ごつい話になってきたので止める。「歴史」やら「伝統」を見つめなきゃならんのだろうな。勿論、幾つもの「歴史」やら「伝統」へのまたがり方も、である。