ひぐらしのなく植民地15

「泣き」「鬱展開」「ヤンデレ」と、こういうのは昭和50年代以前だったら「文学的」と評価されていたんじゃないかね。こういうのを「文学的」だとか「オタクに文学を導入した」とか言わないところに、オタクの倫理みたいなものを感じる。ただ昭和50年代以降生まれのいわゆる「オタク第三世代」は「文学的」が持っていた重力をいまいち知らない。ここら辺がつらいところで。ポストモダン流の「文学的」批判を通過した「文学」をやりつつ、「泣き」「鬱展開」「ヤンデレ」とか叫ばなければならないと。

お、くだらねえ世代論になっちまった。