ひぐらしのなく植民地7

マンガにおいて背景が風景へと転じたのはいつごろだったろう。確か何かで、劇画のリアリズムにおいて風景のようなものが生まれてきた、みたいな記述をと読んだことがある。この手法を発展させたのが、風景の写真をマンガの中にとりこむという手法だ。現代マンガが捨てていった手法の一つに挙げてもいいだろう。

大友克洋は、従来は背景用の作画ペンとして使用されていた丸ペンを人物にも用いた。これによって人物と背景が溶け込んでしまったビジュアルを大友は手に入れた。風景のようにしか描かれない人物、キャラクター。私は「セカイ系」のはしりは大友克洋であると思っている。

では、劇画−大友の系譜の外に位置づけられるオタクたちはどのような背景であったり風景あったりするものを描いていったのか。
これは面白いテーマであると思う。

まほらば』というマンガがある。あまり好きなマンガでない。しかし、異様なものを感じてしまう。なぜこの凡庸なマンガに異様なものを感じるのだろう?と考えていたら、わかった。このマンガの風景が異様なのだ。とにかく作者は、人物と風景の大きさの対比を無視している。いや、風景の事物が大きすぎるのだ。マンガの中でパースを読むコードが狂いはじめ、登場人物たちはラブコメを演じているのだけど、それが極めて空々しく見えてくる。そして読者の視線を狂わせた挙句、このマンガは「ラブコメをかぶった何か」ではないかと思わせてしまうのである。

さて『ひぐらしのなく頃に』だ。劇画的視点からすると、この作画には血が通っていない。オタク的視点からすると、福本伸行の絵が劇画と呼ばれていないように、ペラペラだ。

でもBGMのひぐらしの声はリアルだ。そして、かつての劇画の一手法であるかのような写真の風景への取り込みも大成功をおさめている。ゴミ捨て場、変に人の入ったような山林、校庭の砂利。オタクたちがデオドラントされた都市や農村を風景にしていくことの真逆をやって、また別の新しい世界観を確立している。そしてその中で暴れまわるオタク的にペラペラな絵。

ひぐらしのなく頃に』は新しい。胸を張っていいと思う。