私とコミケ3

明大漫研、または明治大学は多くのマンガ家やマンガ界関係者を生み出したといわれる。コミックマーケット準備会代表である米沢嘉博もそのうちの一人に挙げてもいいだろう。

なぜ明大が多くの人材を生み出しえたのか?について、私は究極的には良く知らない。ただ、明大出身のマンガ家の代表格であるかわぐちかいじ学生運動の渦中にあった明大漫研について以下のように語っている。

あの「政治と闘争の季節」の中で、私がこれほどまでに漫画を描くことに集中できたのは、漫研の中に漂っていた政治活動を嫌悪するようなムードのおかげだった。1、2年を過ごしたのは、「神田カルチェラタン」から遠く離れた和泉校舎であったが、漫研は文連(文化サークル連合)に所属しているため、予算を取るためには文連の会合に参加しなくてはならず、それはまさしく「政治と闘争の季節」に吹き荒れた嵐の中に身を置くことに他ならなかった。文連はセクト(党派のこと。革マル派、中革派などの政治組織のこと)の巣窟だった。

会合へ行くとセクトの連中は必ず私たち漫研の人間をオルグ(政治党派や労働組合などを勧誘すること)しようとした。ベトナム戦争に加担しようとする日本政府の是非を問い、その中で今の学生が何をしなければならないかを問いてくるのだ。漫研の人間はそれに答えながらも、学生運動とは距離を置く姿勢を崩さなかった。それは当時の先輩たちが暗黙のうちに了解していた自覚によるものだった。「われわれは<表現者>を目指す集団である。<表現者>はあらゆる事象に対して距離を置いた批評家でなければならない。セクトなどの運動体に与して御用漫画を描くようなことはしてはならない」当時としてはプチブル・反動・不真面目の烙印を押されかねないこの自覚の中で、私たちはひたすらに漫画を描き続けることができたのだ。


かわぐちかいじ『沈黙の団塊へ』

漫研の中に漂っていた政治活動を嫌悪するようなムード」、「<表現者>はあらゆる事象に対して距離を置いた批評家でなければならない」という自覚、これらと明大の伸張とは無関係とはいえないだろう。

彼らは「政治の季節」が終わったあとに無傷であった。勝利者であった。等と、私はまとめてしまえばいいのだろうが、やはりこの言い方は乱暴である。「<表現者>はあらゆる事象に対して距離を置いた批評家でなければならない。」という自覚がプチブル・反動・不真面目の烙印を押されかねない」時代において、それでもなお<表現者>であろうとするスタンスは、むしろ「セクトの連中」よりも真に政治的であったとはいえないだろうか。


コミケは1975年に初めて開催された。かわぐちかいじはこの年、彼の代表作の一つである『テロルの系譜』を発表している。その文庫版の解説を鈴木邦夫が書いている。鈴木邦夫は解説の中で以下のように語っている。

「政治の季節」が去り、大学紛争が終わった時代に発表された中島の映画が作られた時は、まだ希望があった。まだまだ大衆運動が出来ると思われた。だから、ヤクザ映画と同様に、活動家たちのメンタリティに訴えるものがあったし、鼓舞した。ところが『テロルの系譜』の発表された75年は、運動が終わっていた。何せ、あの忌まわしい連合赤軍事件の3年後だ。右にも左にも一筋の希望もなかった。
(中略)
展望を失くした活動家たちが、それでも運動をやめられない。運動を続ける大義が、理由づけが欲しかった。かわぐちの漫画は論理ではなく情念で、それに応えた。
(中略)
学生運動大義に魅了され、その視点から右翼テロの大義を描いた。しかし漫画が発表された時、右も左も大義を見失い、大崩壊が始まっていた。その時、仮構の漫画が現実の活動家に「逃げるな、闘え」と叱咤した。皮肉な話だが本当だ。

1972年に浅間山荘で連合赤軍がリンチ事件を起こし、学生紛争は沈静化に向かう。つまり「政治の季節」が終わった後にかわぐちは『テロルの系譜』を書いたのである。それが鈴木邦夫やその周辺の人々を癒し勇気付けたのは上記のとおりである。しかし「政治の季節」が去り、「右にも左にも希望がな」くなっていたと示されたように、時代は一つの転換点を迎えていた。一つの時代の熱狂が終わった後に、それを冷静にとらえ、それを批評的にあえて描いていくというかわぐちの態度は作家として真摯なものである。だが、それはしがみつきにも似た行為でもあり、下手をすれば単なるアナクロニズムに陥ってしまうことだろう。そして70年後半のかわぐちの苦闘は始まる。勿論、彼はこの後自身の限界を克服し、一人のビッグネームとなっていくのだが。

「あの忌まわしい連合赤軍事件の3年後」にコミケは開催されたわけだ。コミケに勇気付けられた人も、おそらくはいることだろう。コミケに「運動」の批評の役割を与えようとした人もいるはずだ。そう、かわぐちかいじのように。

長谷川裕一クロノアイズ グランサー』の1巻を読んでいたら、80年代のコミケを舞台にした話が出てきた。主人公たちに80年代コミケの破壊の阻止を依頼するネコミミの考古学者は「なんと・・・・無知・無教養な!! 80年代といえば言えば! 20世紀末に活躍するキラ星のごとき一流クリエーターがまだその卵として多数参加していた頃ではありませぬかぁぁ!!」と語っている。おそらく間違ってはいない。だが、これは単に現代からの視点によるものではないか。アニパロが批判の的にされたのは、アニパロがかつてのコミケの可能性を閉ざしたかのように思われたからであろう。逆の立場から見れば、80年代のコミケは70年代のコミケの批判としてあったのではないか。

そして「政治」はどこら辺りにいったのだろう。80年代のオタクが引き継いだのかもしれない。かつては永島慎二つげ忠男を愛した現代のかわぐちかいじの作品群に受け継がれたかもしれない。

話は煩雑になってきたのでここら辺りで書くのを止める。「現代orオタクから見ないコミケ」みたいな評論はどっかにないものかね。