虚妄と実在と歴史と

トップをねらえ2』を今見ている。OKAMAの絵がグリグリ動いていて大変に感動した。自分と同じものを見てきた人間にとってOKAMAって作家は神だ。その神の絵が、神の考えたデザインが、画面で躍動しているのだ。すげええよ。でも人によってはOKAMAって人はいささか歳を食った新人に過ぎないわけだ。『コミックファウスト』で気を吐いた、TAGROにせよウエダハジメにせよ、現代を象徴する気鋭の新人なのだが、彼らだってそれ相応以上のキャリアがある。10代20代の若造が天才と呼ばれるためには何かのフックに引っ掛かるしかない。そしてそのフックはいまいち現代的でない、ときている。さてさて。

ちょっと本音をいえばOKAMAの絵というか、その周りの人々はもう本当に先端中の先端からは、少しだけズレている。と思う。OKAMAを時代とみなす人もいる。一方でOKAMAの時代が来た、と思う人もいる。OKAMAという新人を知った人もいる。『トップをねらえ1』から見て『トップをねらえ2』は堕落したものであると考える人だっている。いうまでなくOKAMAを知らない人もいる。一生出会わない人だっている。人は人なりの時間軸で生きていて、そしてその時間軸に規定されてもいる。さてさて。

トップをねらえ2』の第三話で物語は少し息が上がったように思えた。どうも人間が描けていないのだ。SFの事はわからない。GAINAXの事だってわからない。でも、このブッ飛んだ世界の中で、その時間軸に鎖された人間がいないのだ。彼らの見ているものは、彼らの世界に沿っていないというか、彼らの見ているものは、彼らから隔絶された私たちと同じなのだ。時間軸を織り込まねばやっていけないことを「現代」というならば、この作品は「現代」ではない。「トップ」ではないのだ。

さてさて。話しはコンガラガッてきた。現代の「歴史問題」ってのには二つの側面がある、と思う。一つはバラバラになった時間軸を束ねるって側面だ。もう一つはそれぞれ個人が別々の時間軸をもった社会を渡り歩くノウハウを過去に向けるって側面だ。かくして人の前に英霊は現れる。てめえのナルシズムを映した英霊かもしれない。てめえを何処かに連れて行ってくれる英霊かもしれない。

アニメは最後まで見ていないのでよくわかりません。ガイナックスの若武者たちがかつて生み出したお話のパート2どこら辺に落ち着くのでしょうか、俺よ。というかガイナックスは英霊なのでしょうか。それとも違う時間軸を持った人々なのでしょうか。乞うご期待(俺に向かって)。