煮詰まってきたっすよ

web上諸兄のオタク論を読んでいたのだが、実際のオタクやオタク作品そのものから切り離された記号としての「オタク」ばかりが語られているような気がしてきた。記号を消費するオタクの記号的解釈。うーん。

アイデンティティ、というかナショナルアイデンティティってのは、実際の私/(本当の)私を結びつけるものじゃないのかな、よくわからんけど。

小林よしのりはオタクだ。エヴァンゲリオンはオタクだ。と看破した評論家はいまから思えばクリティカルだった。「アイデンティティ」を批判するために提示される「記号」(?)

小林よしのりエヴァンゲリオンも、かつてはクリティカルだった。それらがオタクを討っていたからである。自分が「ワン・モア・ナショナリズム」などとモニタの前でウジウジ思うのは煮詰まったこの鍋をひっくり返すためだ。

アイデンティティ→記号→アイデンティティ→記号→アイデンティティ→記号→...というように時間が描けるなら、歴史はどうなってしまったのか。寝る。俺は知らん。