懐かしい未来

「月奏~ツキカナデ」-Ar tonelico hymmnos concert Side紅-

アルトネリコのサントラの10曲目「memory」をずっと聞いている。曲の始めと終わりの電子音の独奏(?)が大変にすばらしい。ファミコン時代のゲームのエンディングの際に流れてくる音楽、といったら分かってもらえるだろうか。今とは圧倒的に難易度の違うゲームを何とかしてクリアし、画面の前には分けのわからないアルファベット群(日本語のローマ字表記の場合もあるのだが)が映り、その後ろでは感動的に作られた旋律を無理に電子音に置き換えた、あの貧しくメタリックな音楽が流れる。その音楽は自分に甘く懐かしい風景を想起させる。
音楽業界のことは全く知らない。でも、電子音が輝かしく思われた時代がおそらくはあったはずである。ゼビウスが、ドラクエが、ファミコンが、その無味な音楽が、世界を回すだろうと期待されていた輝かしい時代が。
その「無味」さを、自分は「懐かしさ」と誤解している。これはおそらく先人に対する冒涜である。だが自分はそこに「懐かしさ」しか感じることができない。

あびゅうきょ先生のHPの不定期日記2006年3月12日分を読んでいると、この世界が回っていないことを痛感させられる。その原因の一部は、かつての輝かしさを「懐かしさ」としか感じられない自分のような人間にあるといってもいいと思う。
しかし、だ。自分は輝かしい時代の一部を吸引することだけはできた。ならば自分も、と思う。『テヅカ・イズ・デッド』の根底を流れるのは、そのような意気込みである。
また同じく、「終わった」といわれた世界をまわそうとした人間がいた。「劇画」を終わらせた男であり、マンガ史の最後方に必ず現れるマンガ家大友克洋、彼の「無味」さを否定し、90年代とそれ以降のマンガ界で暴れまくった作家たちがそうである。彼らは「ナショナル」を唱え、ニューヨークにテロを行う、というシーンさえ描いた。
そうして世界は幾分かは動いたかどうかは、あまりよく知らない。しかし「memory」は今日も懐かしく耳元で響く。