たまには真面目に(でも小説として、アジとして)

ありとあらゆる事物は誤読されうるし、また人は事物を誤読する権利がある。8/15の平和と、今日の平和とは、全くの別物である。彼らは自分たちの経験を普遍的なものであるかのようにアピールする。彼らの平和を批判するには、平和よりもむしろ彼らの個別の経験をフォーカスする必要がある。いうならば彼らを理解し、その上で読み違えること。
日本は朝鮮を近代化した。全くそのとおりである。朝鮮人は日本に感謝すべきだ。近代化によって利益を受けた朝鮮人に限っては。
かつて私たちは北朝鮮に期待した。なぜならば南朝鮮には忌むべき大日本の残滓が存在したからだ。その結果生まれたのは拉致事件である。衝撃をうけた利口な人間は転向し、今度は南朝鮮に期待した。そして『嫌韓流』は生まれた。
いいかげんに朝鮮に甘いものをみるのはやめたほうがいい。彼らに何らの善悪をみてはいけない。彼らをたんなる朝鮮人として、丸まま理解すること。「嫌日」と「好日」を彼らの文脈で理解すること。
また同時に、朝鮮に甘いものを見てしまう私たちにも焦点はあてられなければならない。朝鮮を幸福にさせた近代は私たちをどこまで幸福にさせたか?
明治の革命家たちの近代は立派であった。しかし彼らは「開国」と「攘夷」の間に決着をつけることに失敗した。
8/15の革命家は、ひどいものだ。今日の近代を見よ。竹島を領土問題にせねばならない、その卑小さを見よ。
「朝鮮は日本に突きつけられた匕首だ」。至言である。しかしおそらくこの言葉は思っている以上に、重い。