塔のむこう

人間がひとたび「天」というような超越的価値から断絶されてしまえば、彼は好むと好まざるとにかかわらず世界の中心とならざるを得ない。そして、ひとたび人間が世界の中心となってしまえば、彼はもはや自己以外の何者をも愛せない。

江藤淳『明治の一知識人』

今日は真珠湾攻撃の日だった。こんな日に限って政府は臨時の閣議を開き、イラクへの自衛隊派遣の延長を決定した。国辱はここに極まったってわけだ。ナショナリストの腹の中は燃えているに違いねぇ。と思っていたら、NHKBSで『雲のむこう、約束の場所』をやっていた。「こんな日に放送するなよな」と呟きながら見ることにする。

「かなえられなかった約束に、何か大事な意味があったのかもしれない」とは監督新海誠の言葉だそうだ。この言葉を信じた私は最初作品をヨド号事件をアニメ化したものじゃねえのか、と思っていた。だがどうも違うらしい。

要は彼女という日常か、世界を救うという大義か、どちらを選択するか?という話である。しかし、この二つは私たち男性にとって決して背反するものではない。塔に捕らわれた姫様を救う事と世界を救う事とは、地続きであり、同義である。作品のラストも大義を成就し、姫様も救うという形にうまく収まっている。彼女を救うということと、むこうがわの世界は確かに接続している!

そういう意味で監督は「セカイ系」といわれるものを描かなかったわけである。「セカイ系」を否定した。とも言えるだろうし、ベターな話をやった。とも言える。

けれども、こんな日に見る塔の爆破によるラストシーンはやはり心に引っかかる。そこに私は9.11を見るし、勿論、真珠湾攻撃を見る。天と姫様のためにとった行動は結局のところ、失敗に終わるのではないか。

世界も姫も私たちの手からこぼれ落ちる。そして私たちは天を呪い、姫を塔に閉じ込め、砂のような現実と社会を前にして、世界の中心で愛を叫ぶことになる。

今すぐにそれらを止めることができるか?姫を愛し、天を仰ぐことができるか?といえば、私には答えられない。監督はそのあたりまで踏み込んで欲しかった。

映像というものがそれに答えているかも知れんが、俺にはわからん。田舎の腐った風景と空の描写と塔のデザインは凄かった。やはりこの人はシーン造りを先行させる人なんだろうなあ。