京都美術館に行きたい(゜ω゜ )

某アニメのオープニングテーマを大声で歌いながら、唇からこぼれるフレーズひとつひとつに脳内で突っ込みと失笑を繰り返すと、湾景が恋しくなってきた。関川夏央狩撫麻礼と何よりも伊藤明弘から学んだ小林旭の格好で、ギターを抱いて海に花束を投げようと思った。大阪まで行くことにした。

名古屋大阪間の風景のグロテスクさは、このブログと人生のテーマだが、沿線から眺める景色はなかなかのものがあった。「LOVE憲法」と書かれた看板は、どこから話せばわたしたちは分かり合えるのだろうという気分にさせる。某アニメが頭に浮かぶ。知るか。自分で考えろ。

ロラン・バルトは東京の皇居を見て「都市東京の中心は空虚である」と考えた。ドゥルーズガタリ大阪駅構内を歩き回って「リゾーム」という概念を生み出した。ギターを抱いた渡り鳥が一匹、涙を堪えて迷子センターに駆け込む。「港に行きたいんだ。友の眠る海に」

阪神線阪急線地下鉄環状線を乗り継いで、港に着いた。駅の周辺には「水際で止めよう。銃と薬物」という標語や「オリーブの木」と名乗る雑貨屋があった。冷戦の爪あとは今だ生々しい。歴史は人を飲み込み吐き出す。遠景の観覧車と近景の場末た建築物は私達の遠近感を奪う。横にアニメ絵の姉ちゃんでもいたら「セカイ」なんて呟けるんだけど、いるわけもない。そんなものは通過した日本橋で買い忘れたきた。

花束と途中で買ったペットボトルとコンビニ弁当のガラを、五月蝿そうな釣り人のおっちゃんにみつからないように、こそこそと海に捨てた。捨てた後は「ボクは何もしてませんよ。善人の小市民ですよ」なんて顔をした。他人には負け犬の顔をした男のようにみえたはずだ。ついでだからどこかに寄ろうと思った。「海遊館と遊園地は間抜けだし、俺も文科の一片割れなんだから」とサントリーミュージアムに向かった。ガンダム展をやっていた。


ガンダム展は主催者の悪意の発露という点において大成功をおさめている。子連れで賑わう海遊館と遊園地の近くに立つサントリーミュージアム。しかもこの日、『名探偵コナン』の催しもあって(『コナン』と『ガンダム』両方とも見れる共通チケットの販売までしていた)、「ガンダムもやってるー。」「仕方ないなー。」と会話したであろう善良な親子連れが勘違いして、何組もガンダム展に入場してきていた。彼らを迎えるのは、怒り狂い四つんばいで拳を振り上げるセイラさんの巨像、玉砕を誓うザクの大群、積み重ねられた骸骨と死体の前で足を組む連邦軍の女仕官の写真である。子供は半泣きになり、親は絶句し、孫を連れてきた老人(の目)は完全に死んでいた。「文化施設に行って、感想文を書いて来い」なんて宿題を出せれた厨房が「ガンダムで美術だけら、ここでいいや」と思って入場し、白紙のノートを抱えている様はけっこう笑えた。多分、クレームが一杯ついていると思う。そしておそらくコレを椹木野衣ならネタにする。「日本という悪い場所」の具体例の一つとして。

展示の方法はひどかった。内装がユニクロちっくなのは仕方がない。でもセイラさんは四方から見ることができないし、リピートで流される映像はリピートされること前提として作られていなかった。ニュータイプ検査のパフォーマンスもやっていなかったし。苔を育てるスペースコロニーは電源が入ってなかった。グッズ売場が一番賑わっていたことは、きちんと反省した方がいい。アーティストと主催者と会場関係者はもっと話しあうべきである。と月並みなことを言ってみる。

セイラさんの巨像は無理やり四方から眺めてみると、腕には、噛ませてあるスポンジが見えていた。巨像は入場者に怒りをぶつけているように見えるが、スポンジの角度からだと、「小さき敵」に拳を振り上げたところを観客に見つかって恥じているように見える。おおくの展示はスポンジの角度からみた(つまり無理矢理四方から見た)巨像のように、敵や戦いを描けていなかった。敵を明確にし、拳を振り下ろすことに躊躇していた。ザクにしても、屏風に描かれたガンダムにしても、珍妙な自然風景の写真にしても何と戦っているのか全然わからない。これを富野御大がアニメ界に与えたインパクトと対比して考えるとナイスな気がする。でもガンダムって見たことないしー。

ガンダム展は会田誠のザク絵が良かったです。油絵の匂いっていいなー。近づいてみると、「あー、俺でも書けそうだわ。この塗りは」って気にもなるし。前衛とそこらのカルチャースクールの差とは何か。今日もオチは無し。