ちゅーごく、ちゅーごく、諦めました

どちらにせよ私たちはどうしようもないやつらだ。
 信念を本気で崇めることができない。世界が変わると一度も思ったことがない。現実を物語へと転換させたところで、すぐに飽きてしまう。死者たちの上に建つ歴史とブックオフの棚に並ぶ過去との間に、何らの差異を見つけることはできない。夜中の熱狂を次の日にすっかり忘れている。先人が歩んでいった過ちの道を私たちは幾度も踏むだろう。勿論、胸を張って、堂々と。

「ブリコラージュ」?「限界芸術」?でも何のための?これは一体どのようなものに還元できる?社会?個人?美学?歴史?
 もし看板が「オタク」的キャラクターなら、好きなように正解を述べることができるだろう。(『Gunslinger Girl』のヘンリエッタの看板があったら、それなりに面白いはずだ。)版権に小うるさい図像であれば、「著作権反対」のようなスローガンを叫ぶことができる。ベストセラーの啓蒙本からやってきた、キャラクターではないキャラクターはどうしようもない。これはあのような「正解」に接続させることができない。
 みうらじゅんは『アイデン&ティティ』で「本当の意味で僕はストリートに座った事がない」と呟いた。私たちはこの先ストリートどころかロードにさえ座ることも、ましてや立つこともありえないだろう。だがこの「キャラ」はやはり路上の奇跡ではないか。
 エヴァンゲリオンは結局、空から白塗りの気味の悪い「キャラ」が降ってきたという話であると思う。もしあの時、「キャラ」ではなく「何か」が降ってきたとすれば、この看板のようなトンチキで禍々しく、神々しいものとなったのではないか。