求められるオタク像?郊外私観2の補足

あの糞長い文を要約すると

・オタク共同体(おたく族)に加盟→スタイルを入手
・街の本屋でスタイルとコンテンツを入手

という族的・地域的なものに縛られた消費スタイルだけではなく

・オタク的共同体に加入せず、ネットでスタイルを入手
・ブクオフ+P2Pでコンテンツのみを入手

という安価な消費スタイルが最近では実現している。ならば、余った労力を使えば、モンスターが生まれるのでは?と。少なくとも私たちは、これらの恩恵をうけ、この情況をフルに生かした新世代にビビッているのでは?という話だったわけです。


しかし、そんな上手くいのくかよ?ってのはありまして。

大体、物を知らない10代の人間に、ネットのαブロガーのような、フェイントとネタと狂気の入り混じった「スタイル」なんぞ盗めるわけがない。インストールすべき「スタイル」を見極めようと思ったら、ネット接続以前の家庭環境・地域社会・オタ共同体から培った原初的な「スタイル」ってものが必要である。んで、家庭環境・地域社会で不満なく生きた人間が、わざわざネットで、萌えアニメ評論ブローガーの門を叩きますかね?と。

んで、スタイルってのはネットで盗めるものなのか?ってのは十分にありえる話。ネットの情報量と、日々コミュニケーションを取る友人や先輩からの情報量ではどちらが多いか?書物を開くのと、教師に教えてもらうのと、どちらが良いのか?と、これは同形の問題である。あと、スタイルを盗むつもりでネットを見ていたら、それに没頭しすぎて、時間を浪費しまくるかも知れない。世界の広さに驚き、呆然として、結局何も身に付かないかも知れない。

それと、P2Pはとりあえず法律違反だから。捕まる可能性ってのもあるし、規制がかかれば無くなるやも。あと忘れてたけど、ネットもP2Pもパソコンあってのもので、安くなったけど、10代には、ほいほい買えるものじゃない。

んで、ブックオフP2Pも安価だけど、自分が身銭切るのをケチった物って、身につきますかね?なけなしの金を払って買ったほうが、真剣に享受できるのと違うの?と。ブックオフで全巻100円で買ったものと、書店でコツコツ買い揃えたものと、どちらが強く脳に刻まれますかね?と。あとオタ共同体に属すると、物を貸してもらえたりする。無論タダで。この手のも見逃せない。

最後に誤解ないように言っとくと、この手のモンスターが素晴らしい!と言っているわけではない。ただ、この手のモンスターが生まれる素地はありますよ、と。それでアンタはどうするの?と。

ああ、それと。自分は学生時代に全く「オタク部」のようなものには入ってなかった。自分のオタクの師匠たちはメディアの中の人だった。小林よしのりとり・みき田丸浩史西川魯介西原理恵子テキストサイトにマンガ評論サイトに別冊宝島のマンガカタログ。ここらへんでスタイルをいただき、ブックオフで買ってきた。んで、今に至る。

難波功士『族の系譜学』のメモ

族の系譜学―ユース・サブカルチャーズの戦後史

族の系譜学―ユース・サブカルチャーズの戦後史

戦後の若者文化を順に辿っていったサブカル史的な本。辿っていった結果、著者は、若者文化が「族」から「系」に移っていったことを、留保つきだが、指摘する。

つまり、「暴走族・クリスタル族・おたく族」のようなものから「渋谷系・裏原系・アキバ系」へ、という具合に。

かつてのユースサブカルチャー(族)は、個人の階級や地域や資質に強く規定されていた。そして結束は強く、内部の規範に常時従わねばならなかった。
しかし
・メディアの普及
・社会の断片化
が進むと、サブカルチャー集団も凝縮性を失う。
これらをうけて「族」は無くなり、「系」が生まれてくる。「フィギュア萌え」族という言葉自体も間抜けなのは、このためであるとも思える。


「族」とは集合的なアイデンティのあるものである。「系」は消費のスタイルだ。

「族」とは成員になるものだ。「系」とはアクセスし、享受するものだ。

「族」とは「対面的な身体同士の共振がある」集団である。「系」とは「メディアによって表象される身体とモノのウェブ」だ。

自分流にまとめると、「族」は集団内でスタイルが作られ、「系」はメディアからスタイルを与えられる・または消費する存在だ。無論、メディアには「ネット空間」も含まれる。


その他、「渋谷系」と「オタク」の共振についても書かれてあって興味深い。カルスタ入門本としても読めるのではないか?


あと更科修一郎の『嫌オタ』での発言(オタは下流文化でもある)を取り上げて、都市中流文化であったオタの拡散を指摘している。

さて、ここで大塚英志の名前が浮かぶ。大塚の生家は、おそらく「中流」の家庭ではなかっただろう。しかし、大塚はオタク(訂正)「おたく」になれたわけだし、国立大学に通うこともできた。おそらく大塚は、自分が階級に囚われなかった存在であることを、「戦後民主主義」の恩恵と受け取っているように思える。(大塚自身が言っていたような?)