まわるまわってく
「ノリつつシラケる、シラケつつノル」だっけ?こういうことができるのは分別のある人間、確固たる自己を持っているバランス感覚のある人間だけだわな。「萌え」でも「非コミュ」でも「政治」でもいいや。この手のものにどっぷりと浸かっているヤツにバランス感覚みたいなものはあるのか?といえばややこしい問題だけど、バランス感覚が求められるのは確かだ。
よく知らんが、オウムも連合赤軍も、平衡台から足を踏み外したヤツラだ。「オウム」も「連合赤軍」もギャグだったんじゃないか。でもヤっちゃった。その後に出てきたのが、皆大好きな新左翼運動の壊滅だったり、「保守化」の動きだったりする。例えば、オウムがサリン事件を起こさなかったとしたら、「安全」という物言いにかかる偏りもちょっとは違うものになっていたんじゃないか?
「悪の石原を破るチャンスにも関わらず、ネチズンは呑気に外山MADを楽しんでいた。」「悪の石原を倒すべく、当時流行していた『萌え』文化をネチズンは引用した。」とか後の歴史家に言われたら嫌だなあ、と。それほどイージーな問題ではない。
「『萌え』文化は、外山元候補の暴走によって幕を閉じることになる」という未来を何となく希望します。むずかしいねー
まわるまわってく2
そして何よりも私たちは「政治」を信じられずにいる。90年代の初頭の政変、構造改革、不況対策がこの世界をどれだけ変革したのだろう?かつての政治の手本であったソ連は崩壊し、9.11以降のアメリカはDQN化し、北朝鮮と中国を褒め称えた人間は日の下を歩けなくなった。このような場所にサブカルは立っている。だからセカイ系は政治に対する個人の称揚でも、政治の拒絶でもない。単にそこにある風景だ。新海誠の描く、醜く美しいそこにあるリアルな風景である。
http://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/20070406
と私は書いた。詳しい人に色々聞きたいところだが、無党派層をまとめたという点において石原慎太郎は(田中康夫と同じく)変革者であったのかも知れない。ところで石原は新海誠を「この知られざる才能は、世界に届く存在だ!」と褒めている(http://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/edit?date=20070407)。確か『ほしのこえ』DVDの帯にはこのフレーズが書いてあったように記憶している。
「石原=セカイ系。セカイ系に政治を任せてよいものか?」というと正しいような気もするが、某社会学者のように野暮でもある。野暮さを引きずりつつ、選挙に勝つとなると・・・。むずかしいので終了。
マルチ萌え〜
私は、思う。
左翼はネタ化している場合ではない。
http://www.indo.to/log/nakajima/?itemid=771
はて?ネタ化しなきゃ石原のように「マルチチュード」の票を得られないのでは?選挙に受かってナンボの商売なのでは?それ以前に左翼はネタ化しているのか?http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20051220#1135014430この記事によれば「萌える政治集団」というキャッチコピーを民主党は回避した。
そして左翼のネタ化はどれほど支持を得ているのか?http://www.kajisoku.com/archives/eid1303.htmlこれを読んでみたらわかるけど、外山と金正日を除いて、左翼の相手を誰もしていないという。
話は少し逸れるが、鳥肌実は見沢知廉に出会ったとき、とてもビビッていたという。「嗚呼、俺はネタなのに、ム所帰りの本物が来た」と思っていたに違いない。でも見沢知廉が「ネタ」と決別しきれているか?といえばかなり怪しい。
おそらくネタというものは体の奥深くまで今や進入しているのだ。ネタと決別するのはむずかしい。だったらどうやってネタに対抗するか?といえば、http://www.savemanga.com/index2.htmlこの運動がある種の回答を与えてくれると思う。ノンポリであったはずのオタクが、このバーナー(http://www.savemanga.com/bana_007.jpg)を貼りまくっている姿は興味深いと思うのだが。ネタ化している人間の目線で言うのだ「ネタ化している場合じゃない」と。
んで、ネタ化していた人間が真面目になって思うのだ。「よしこれからは真面目になるぞ。伝統とか国家を大切にしよう。国益を損ねる左翼を排斥しよう」と。そして左翼は壊滅する( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
はて?なんでこんな展開に?