求められるオタク像?郊外私観2

難波功士『族の系譜学』って本の第九章”「おたく族」から「オタク」へ”って部分を読んだ。
自分なりに要約してみる。

「おたく」は、
・特定の物質的空間=コミケ・都市部の一部の趣味共同体
・特定の階層=都市中産階級
・特定の世代=新人類
・彼らの内輪の話
だったわけですな。

しかしメディアが発展・普及していくと、これらの「特定」は全て壊れていく。
コミケに行かなくても同人誌は手に入る。アニメが面白くなっていくに連れて、下の世代もアニメを見始める。彼らの内輪話は、ネットや雑誌で拡散する。レンタルやP2Pの普及でアニメ・マンガは安価な娯楽になる。

かつて「おたく」は「族」であった。「族」とは「対面的な身体同士の共振がある」集団の事である。しかし、そのようなコミュニケーションよりも、現在あるのは、個々人を中心とする消費スタイルである。いうならば、オタク系である。この流れを著者は「おたく族からオタク系」というように、まとめている。

(ここで、村上知彦的「ぼくら語り」系マンガ批評→夏目・伊藤的マンガ表現論への流れを思い浮かべてもいいかもしれない)


以下それをうけての私の妄想。


消費文化に関わる人間の濃度ってのは
「スタイル」+「コンテンツ」で決まる。

「スタイル」ってのは消費スタイルのことだ。溢れかえるコンテンツをどのように順列化し、取捨選択するかの方法だ。この方法は通常、オタク的共同体の先輩・友人方や、雑誌や、書店から伝授される。しかし、このスタイルのインストール方法に、新たなる方法が加わる。ネットである。

趣味の濃度においてイマイチ信用ならない先輩・友人。アップトゥデートが遅くコストの高い雑誌。スタイルがダサい店舗。メジャーなものしか売っていないTUTAYAサブカルのスカした本屋ではなく雑貨屋になりさがったビレッジバンガード。これらに構うことはない。ネットでαブロガーのスタイルを盗むこと。2chのスレでオススメを確認すること。そして彼らが彼らのスタイルの元にした書籍を、図書館で借りて読むこと。これによって、地域的・身体的な共同体からはかつて得られなかった「スタイル」が、安価・低労力で手に入る。

「スタイル」が定まれば、それに沿ってコンテンツを享受すればいい。ここにおいて、ブックオフの名が挙がる。ブックオフというものは基本的に「スタイル」を売ったりしない。通常本屋というものは、売れるものしか売らない。または、取引先や、店員の趣味や、その地域の文化的濃度にあったものしか売らない。売りたい本・売れる本はオススメのコーナーに置かれ、「スタイル」をこちらに売りつけてくるのである。TUTAYAならベストセラー的「スタイル」であり、ビレバンならサブカル的「スタイル」、オタク系の本屋ならオタク的「スタイル」を提案してくる。旧来型の古本屋ならば、店主(と彼のトライブ)が価値があると判断したものに、高値が付き、「スタイル」を提示する。

ブックオフは、基本的にスタイルを売ってこない。本は「スタイル」によって順列化されず、単に定価と版型と状態の劣化度によっての順列化される。これは極めて平板な空間である。

「スタイル」を持たない人間にはこの空間は苦痛であるかも知れない。しかし、「スタイル」を手に入れた人間ならばこれほど快適なものはない。「スタイル」によって、本棚から本を取り出せばいい。ブックオフに「スタイル」がない、ということは、ブックオフの棚にバイアスが無いということだ(注*)。ならば、全ての本が散発的にそろっている。あの本屋には絶対並んでいない本が、プレミアも付かずに、なによりも安価に並んでいる。「スタイル」を持っていれば、ここは宝の山であり、無論新旧の本が同じ棚に揃っているのも頼もしい。

「スタイル」というものは、おそらくP2Pにおいても希薄である。そして、そこに置いてあるコンテンツは無料である。「スタイル」が決まれば、そこからダウンロードすればいい。そしてそのためのインフラも今日では安価であり、また手に入らないものはネット通販でピンポイントに買えばいい。通販で買えるということは、都市部まで出て行かなくても買えるということである。これは地方の人間にとっては大変にありがたい。

つまり、濃厚な「スタイル」も膨大な「コンテンツ」も、今日では比較的安価・低コストで手に入れることができるわけだ。

んで、あまった現金と労力で何をするか?これらを難解な哲学や思想や学問に振り分けるのも可だ。その為の書籍を図書館で借りて、スキャナでスクラップという手も極めて安価だ。それよりも、この手の現金と労力を、ファッションと人間付き合いに割り振ってみるのは、かなり良い手だろう。彼は、「おたく族」ではない。むしろ低廉されたコンテンツを享受する「オタク系」である。彼には共同体=「族」が必ずしも必要なわけではない。友人や先輩からスタイルを盗む必要も無い。だったらばしがらみもないので、現世ではもっとちがう「族」に入って「リア充」を満喫することもできる。んで、安くて小奇麗な服を、買い揃えることもできる。


んで以下のような情況が生まれる。
・濃厚な「スタイル」も膨大な「コンテンツ」も、今日では比較的安価・低コストで手に入れることができる。
・中国の縫製技術の進歩のお陰で、小奇麗な服が安価に手に入る。
・都会まで行かなくても、これらは「国道」で実現可能である。
・余った労力・現金を人間関係とブランド物に投入。
・小難しい本に労力・現金を投入。


すると以下のようなモンスターが育つ。
・若くして趣味において濃厚な「スタイル」を持つ。
・博覧強記である。
・オタと哲学を結びつける。しかも両方ともよく知っている。
・かといってファッションセンスも有る。
・コミュ強者で、どの内輪にいってもコミュニケーションが取れる。


おそらく今日の求められる、というか私たちが恐れる若者像がコレだろう。氏ね。と言いたいが、私たちも多かれ少なかれこの手の情況に恩恵を受けているのは確かだろう。コンテンツへのアクセスは簡易になり、パソコンは安くなり、私たちは多少小奇麗になった。

だが、ここにおいてかつてあった「おたく」というものが、例えば宮崎勤というトラウマが、消去されているのかも知れない。結局のところ、ブックオフに歴史が無いように、ここには一定の濃密さというものが無い。

また同時に、そのような歴史を知らずとも、今日のオタク系コンテンツを楽しみ悲しむことができることは、確かな事である。かがみあきらを知らなくても、メカと美少女は堪能できるし、三流劇画に対抗したロリコンマンガという歴史を知らなくても『Lo』は読めるわけである。ここにおいて、オタク「系」でしかありえない者はどのような立場と戦略をとりえるのか?歴史から見放された者が、歴史を「スタイル」として取り入れるのは、所詮反動であり、それも一種のどこかで手に入れた「スタイル」でしかありえないのではないか。結論は特に無し


(注*)とは言うものの、無いわけではない。古過ぎて状態の劣化が激しい物や、あまりにも出回っていないものは中々並ばない。つまり、古いものは希少だともいえる。ブックオフには1980年代以降の本しか置いていないように思える。無論1980年以前の書籍に価値が無いという訳では決してない。ここにおいてある種の歴史の忘却が行われたりもする。